明石まちづくり小史 11

まこと流まちづくりの地平 ◇ 松本誠

朝霧駅開設から40年、明石の新駅開設物語
── 新しい駅づくりには住民の“悲願”と必然性があった

 今年は明石市内に新しい駅が誕生した最後の駅「JR朝霧駅」が1968年(昭和43年)6月20日に登場してから、ちょうど40年になる。

 開設当時は「国鉄朝霧駅」だった。前年9月に明石・神戸にまたがる明舞団地(明石・舞子団地)がまち開きしてから約10ヶ月、最初に入居した人たちから「陸の孤島」といわれた団地の駅ができて一挙に利便性が向上し、団地の建設・入居に拍車がかかった。その輝ける駅を舞台にして、まさか33年後に大蔵海岸の花火大会の大惨事が起きるとは夢にも思わなかったであろう。

 朝霧駅が登場したころは、明石の鉄道史に大きな変化が相次いだ時期だった。

 その10年前の1958年4月には西明石~姫路間の電化が完成し、1961年10月には魚住駅が開業した。電化計画を機会に新駅開設計画が立てられてから6年ぶりの実現だった。当時の魚住町は南部の海岸沿いに走る山陽電鉄沿線にまち並みが連なり、中・北部は全くの農業地帯だった。新駅開業とともに、当時の魚住農協を中心にした農地の区画整理事業が進み、住宅開発がはじまった。いまのJR魚住駅を中心にした中・北部の開発はこのときからはじまったといえる。

 1964年12月には懸案だった国鉄明石駅の高架化が完成し、翌年3月には現在の複々線が開通した。高架下にはステーションデパートが開業、相前後してオープンしたダイエー明石店を含めて、明石駅前の商業にも大きな変化が訪れた。

 朝霧駅の開業は、そうした一連の鉄道整備事業の流れの中で、大きな役割を背負って、必然的に生まれたものだった。この年12月には、次のステップをめざして山電高架促進同盟が結成され、それから23年を要した山電高架1期事業に向けての歩みがはじまった。

 ここでついでながら、明石市内のJR線の駅を整理しておくと、この小史第1回でふれたように、1888年の兵庫~姫路間が開通した際の現在の明石市内の駅は、明石、大久保、土山の3駅だった。魚住、朝霧の両駅は上記で述べたが、もう一つ西明石駅を忘れるわけにはいかない。

 西明石駅が開設されたのは意外に遅く、戦後の1946年(昭和21年)4月だった。戦時中に川崎航空機工場(現在の川重明石工場)への勤労動員用に臨時の仮駅が設置されたのがはじまりだった。7回におよぶ戦時空襲で同工場は徹底的に攻撃を受けたが、戦後は食糧増産のために一時は工場内で農作物を植えて食糧危機に対応した。その後工場の再開、西明石電車区の設置で西明石駅南は国鉄社宅や住宅が密集した。

 新幹線西明石駅の設置が決まったのは1966年、複々線開通の翌年だ。山陽新幹線第1期工事の新大阪~岡山間が計画される中で、明石市北部を通過するコースで神戸-姫路間に駅が必要なことや、山陽本線の複々線終点区間であり在来線との立体交差ができるなどの条件から決まった。地元からの新駅誘致の動きは全くなく、新駅の決定は市の関係者にとっても“タナボタ”的な受けとめ方だった。大慌てで、新駅周辺の区画整理事業などの都市整備にかかった。

 こうした新駅建設の経緯を振り返ってみると、一昨年から“市長のトップダウン”とかで突然浮上した明石-西明石間の和坂付近に新駅をつくる計画は、いかにも唐突といえる。最近は、JR側が乗客獲得をめざして新駅づくりに躍起になってはいるが、新駅は鉄道側がすべて負担してつくるのではなく、関連事業も含めると地元も巨額の事業費負担に迫られる。地元のまちづくりにとって必然性のない新駅構想は市民にも説得力を持ちにくく、その実現の可否や投資効果には、もっと情報共有と市民的な議論が必要であろう。