明石まちづくり小史 10

まこと流まちづくりの地平 ◇ 松本誠

アカウミガメ産卵の浜辺が語る「海辺の価値」
── 明石西部海岸の歴史を生かすまちづくり、とは?

 この夏、明石の西部にある林崎・松江海岸は、3年ぶり18回目になるアカウミガメ上陸と産卵、大量に孵化して無事大海原へ旅立っていった“いのちのドラマ”に、わきかえった。6月4日未明に産卵が確認され、産卵した103個のうち89匹が孵化し、約70日後の8月12日から13日にかけて74匹が自力で砂浜を脱出し海へ向かった。

 明石の西部海岸にはかつては毎年のようにアカウミガメが産卵に訪れていたが、海岸の浸食で砂浜がなくなり、途絶えていた。再び上陸が確認されたのは、1986年以降のことだ。以来、上陸が確認されたのは18回。うち16回は産卵が確認された。上陸、産卵した区域は、林崎から江井島まで約6キロの人工養浜海岸。大阪湾・播磨灘は、自然海岸は戦後ほとんど姿を消し、工場立地や都市整備のために埋め立てられた。砂浜らしきものが残るのは、大阪府南部の二色浜と人工養浜の須磨海岸、そして明石の西部海岸ぐらいなものだ。

 なかでも明石は、1970年代半ばから国の直轄で海岸浸食対策を兼ねて大規模に砂浜がつくられた。同海岸線は播磨灘の強い西風による波浪で海岸線の侵食が激しく、河川改修によって河川からの土砂流入が止まることが侵食に拍車をかけた。

 この海岸の浸食対策で成功したのは、沖合いにコンクリートブロックによる離岸堤を築かず、沖合いへ向けて大きな突堤を自然石で築く工法を採用したことだ。突堤と突堤の間を運び入れた砂が行き来し、弧を描く。当初は流出する砂の補給に追われたが、海底に浅瀬ができて安定するにつれて、砂浜も安定してきた。

 養浜事業を設計した担当者も、そこにウミガメが産卵に上ってくる効果までは計算していなかったと思うが、もともとウミガメは太平洋岸だけでなく大阪湾から播磨灘にかけて上陸していたらしいから、自然環境が整えば再来することは不思議なことではなかった。ウミガメは静かで明かりの少ない浜辺に産卵するといわれている。明石の西部海岸は砂浜が広大なうえに、海岸沿いが都市化されていなく、夜間かろうじて光のないところが見つかる環境にある。海岸沿いを観光施設などによって開発しなかった素朴な海辺が、結果的には功を奏した。

 20年前にアカウミガメの上陸・産卵が確認されてから、地元住民と市の海岸担当者、専門家が、産卵巣の保護やウミガメの足跡情報の提供、海岸清掃、夜間照明の消灯や器具の改良、夜間の花火規制など「ウミガメの産卵する砂浜」を守っていく活動に取り組んできたことも、その後の継続的な上陸・産卵に影響を与えた。

 明石市は東西16キロの海岸線に沿った細長いまちで、「海峡公園都市」や「海峡交流都市」を標榜し、明石海峡の景観と海辺が「まちの命」でもある。海辺は単なる自然環境だけでなく、「魚のまち・明石」を育む全国屈指の水産業のまちでもあり、産業的にもかけがえのない海辺である。

 だが、戦後の歴史をひも解いてみると、その海辺を必ずしも大事にしてこなかった。1958年には明石港の外港建設に着手し、今の市役所一帯にあった中崎海岸を埋め立ててしまった。東部海岸ではその後、明石海峡大橋の着工に合わせて大蔵海岸の埋め立て事業を強行し、東部海岸から浜辺が消えた。

 西部海岸でも、1960年代初めに県が二見、別府、高砂の各港湾を埋め立てて東播磨港建設を計画。漁業者の猛反対の末、人工島方式で東播磨港の建設が進み広大な二見人工島(226ヘクタール)が1970年代半ばに埋め立て造成された。このほか、一時は大久保の八木海岸を埋め立てて下水処理場を建設する計画や明石川河口の両岸を埋め立てて、県立高校や下水処理場などをつくる計画も立てられたが、反対運動もあっていずれも潰えた。

 日本ウミガメ協議会のホームページを見ると、海に囲まれた日本の浜辺には広くウミガメが上陸・産卵している。ウミガメが生きられない環境になったら、人間の生存環境も危機に瀕しているといえる。明石におけるウミガメの上陸・産卵復活の20年は、海に面して生きるまちの海辺のあり方に、歴史の裁断を与えているように思える。ウミガメの産卵復活に感動し、保護をめざす人たちは、相次ぐ惨事を引き起こした大蔵海岸のように、見かけだけの「ネコの額のような人工砂浜」をつくった愚を改めることにも目を向けるべきではないか。

※明石市のホームページ「ウミガメ保護」のページ(2019.1.5現在)
ウミガメ保護の取り組み