明石まちづくり小史 04

まこと流まちづくりの地平 ◇ 松本誠

海峡に生きるまち、恵みと危険が背中合わせ

 いかなごのシンコ漁に湧き立つ明石海峡と「魚のまち」を前回のメルマガに書いた5日後、まさかの海上事故が発生し、明石海峡周辺の漁業が壊滅的な大打撃を受けるとは、夢にも思わなかった。

 3月5日、明石海峡のど真ん中で砂利運搬船とタンカー、貨物船の3隻が次々と衝突し貨物船が沈没、乗組員2名が死亡、2名が行方不明の惨事が起きた。全国有数の速い潮流と過密海峡。海の安全を守る幾重もの監視、警告体制があったにもかかわらず、常識はずれの自動操舵に委ねた航行や監視警告システムを無視した結果の事故と見られている。

 問題は、海難事故にとどまらず、沈没船から流出した油による漁業被害が深刻な影を落としている。最盛期を迎えた養殖ノリは油汚染で操業中止と全量廃棄に追い込まれ、巨額の損害を強いられている。はじまったばかりのシンコ漁も明石海峡とその周辺海域での操業を中止、漁師らは漁業ではなく、油の回収に追われている。

 明石海峡は、淡路島北端と明石・舞子間の最も狭い水道で幅4キロ弱しかない。この中央部の幅約2000メートルの半分ずつが東西方向の航路に指定されている。一日約2000隻の船舶が航行するほか、その航路を横切るように明石―淡路航路のフェリーや高速旅客船が横断し、たくさんの漁船が航行、操業する。

 海峡で起きた大きな海難事故は、戦後まもなくの1945年12月9日に起きた播淡連絡汽船「せきれい丸」の沈没事故だ。わずか34トンの船に定員の3倍を超える349人が乗り込み、淡路・岩屋から明石港に向かう途中、北西の強い季節風にバランスを崩し、一瞬のうちに転覆した。戦後の混乱期、明石の闇市に買出しに出かける人や生鮮品の行商に出かける人などが人を押しにけるようにひしめいていたが、死者行方不明者が304人に及んだ。助かったのはわずか45人だった。

 明石海峡はもともと、激しい潮の流れに加えて、冬場は北西の強い季節風などで操船の難しい難所でもある。明石海峡大橋の建設の際にも、巨大な主塔の橋台が海峡の真ん中に2つも設置されることによる潮流の複雑化や海底の変化などによる潮流と漁場への影響が懸念されていた。大橋の建設工事に先立って、海峡を見下ろす淡路島の北端の山上に大阪湾海上交通センターが設置され24時間の監視体制が取られたのも、そのためだった。

 明石海峡にはもう一つ大きな不安がささやかれている。1970年代にはじまった巨大なLNGタンカーの航行だ。液化天然ガス(LNG)を特殊なタンク4基に詰めた11、2万トン級の巨大タンカーが、インドネシアや中東から紀伊水道を経て大阪湾の堺泉北埋立地にある大阪ガスの基地に立ち寄った後、明石海峡を経て姫路の大阪ガスの供給基地に向かう。

 4つの大きな球形タンクなどが目立つタンカーは、すっかり海峡の“風物詩”に落ち着いた感じだが、陸地まで2キロしかないところで万一何らかの事故などで爆発した場合には、海峡に面した明石のまちは爆風で吹っ飛ぶという危険性が、当時は盛んに指摘された。もちろん幾重にも事故防止策が施され、タンクも特殊な構造にはなっているが、「絶対安全」という保障はない。

 当初は明石海峡の航行を規制する動きもあったが、エネルギー転換を優先して大阪で積荷を減らしてから航行するなどの条件をつけて許可された。海峡を西へ通過する同タンカーの喫水が高く、一段と大きく見えるのはそのためでもある。

 近年、世界中でタンカー等の事故が相次ぎ、重油の流出によって海洋汚染と水産資源へのダメージが相次いでいる。明石海峡は世界の海の中でも、超一級の折紙をつけられている海域である。外洋でも遠洋よりも近海の方が漁場の価値が数倍上回る。海に囲まれた日本の近海よりも、瀬戸内海の漁場価値は一層高い。瀬戸内海でも明石海峡一帯の漁場価値は極めて高いから、明石ブランドが重宝される。

 その明石海峡周辺で海洋事故が起きた場合の影響は、計りしれない。海峡の平和と安全は、「魚のまち・明石」の命でもある。今回の漁業被害は、漁業者だけの問題ではないという認識が、広く求められている。