明石まちづくり小史 03

まこと流まちづくりの地平 ◇ 松本誠

いかなごのシンコ(新仔)ブームと「魚のまち・明石」

 2月28日早朝から、明石海峡で「いかなごのシンコ漁」がはじまった。海峡に春を呼ぶ風物詩としてすっかり定着し、魚の棚には旬の味を求める人たちが行列をつくる風情が、マスコミに大きく報道されるようになった。

 シンコは、年末から1月初旬にかけて明石海峡から播磨灘一帯に広がる「鹿ノ瀬」などの広大な砂地に産み付けられたいかなごが10日ほどで孵化し、潮流に乗って播磨灘や大阪湾に広がって体長3~4センチほどに成長した「新仔」(しんこ=幼魚)を指す。さっと茹で上げて、そのまま酢醤油等で食べる「釜揚げ」や、醤油で佃煮風に煮る「くぎ煮」を各家庭でつくる典型的な郷土の味である。

 鮮度が勝負だけに、2隻の漁船で海の表層を網でひき、漁獲されたシンコは海上で待機した運搬担当の漁船で漁港に直行、待機した加工担当者は駆け足で加工場へ運ぶ。鮮魚店では行列して待ちうける客に手渡していく。

 くぎ煮ブームが広がって、いまでは神戸・阪神間のスーパーや鮮魚店にも生のシンコが並ぶようになり、価格もどんどん上昇し、シンコ漁解禁の初日の小売値は1キロ1500~1300と高値に張り付いたままだ。わが家でもせっせとくぎ煮づくりに精を出すが、20年ほど前は1キロ300~400円程度だったから、需要の増大でいかなごの価値は急上昇した。

 しかし、今日のようなシンコブーム、くぎ煮ブームが高まったのはここ10数年のことである。兵庫県内の瀬戸内一帯の郵便局で「くぎ煮パック」の宅配便が80万個も扱われ、全国にふるさとの贈り物として発信される。

 私が明石で新聞記者活動をしていた25年ほど前、もちろんシンコもくぎ煮も旬の味として人気はあったが、魚の棚の店頭では行列をつくるような光景はなかった。いかなごは主として体長10~15センチ程度に成長した親魚が養殖漁業の餌として冷凍して出荷されていた。

 80年代後半ごろから、魚の棚商店街など鮮魚流通事業者や漁協が「くぎ煮教室」などを一般の消費者向けに積極的に開催し、ブームを仕掛けたことが徐々に実を結んだ結果である。

 振り返れば、「魚のまち・明石」は、明石海峡という天賦の自然環境だけで築けたのではなかった。有名になっていった背景には、生産者と流通事業者らによる産地としての懸命な努力が百年にわたって続けられてきた先人の貢献が大きい。

 JR明石駅前の明石公園の入り口に、大きな銅像が建っている。明石が生んだ成功者、大洋漁業の創業者、中部幾次郎翁(1866‐1946年)である。1928年11月、明石市が建立した。

 幾次郎翁は、現在の「魚の棚」(旧・東魚町)で生まれた。漁村の林崎村出身の父・兼松は、生魚運搬業「林兼商店」を経営していた。20歳のころから四国や九州へ魚の買出しに通い、五島列島のマグロや阿波の鮮魚を大阪の雑魚場(今の中央卸売市場の前身)に運び、商売を学んだ。

 明治30年ごろ、明石から播磨沖にかけてサバやサワラの豊漁が続いたが、大阪までの運搬に時間がかかり、買い叩かれた。当時、明石の魚問屋は焼いたり、塩にしたりして市場へ出荷していたが、幾次郎は淡路通いの百トン級の小型汽船を曳き船に使って、生魚運搬船を雑魚場に短時間で送ることに成功した。それまでの4,5割もの高値で鮮魚を売り、莫大な利益を上げた。生け魚の流通革命である。

 このように明石には早くから、“前もの”と呼ぶ高級魚を生きたまま迅速に出荷する流通業が発達した。モータリゼーション時代になると、酸素ボンベを積んだ生け魚搬送トラックで全国に配送する流通事業者が活躍する。早朝に絞めた高級魚を京阪神の料理屋などに運ぶ“カンカン部隊”の仕組みも長年続いた。現在は半減したが、林崎漁港には全国でも有数の水産加工事業者が群れをなしていた。

 恵まれた好漁場が産み出す天然の水産資源を大事に育てながら漁獲する技はもちろん、素材を生かす流通システムや加工技術の開発、食卓から遠ざかりがちな魚を食べる工夫や魚食文化を育てる活動によって、「魚のまち」は維持、発展してきた。

 海にかかわる生産から流通、加工、飲食・消費、教育・学習、観光・レジャーまで一次産業から三次産業あるいは四次、五次産業といわれる分野まで、総合的に連携・努力することの大事さを、シンコ漁解禁の中であらためて思い巡らせた。

(「魚の棚」再興策や「魚のまち」の具体的な振興策は、あらためて書きたい)