明石まちづくり小史 01

まこと流まちづくりの地平 ◇ 松本誠

鉄道の夜明け

 2008年は1888年に山陽鉄道神戸―明石間が開通してからちょうど120年の節目の年にあたる。明石市は昨年から、JR明石-西明石間に新駅を開設するという市長の提案で揺れている。新年早々の1月27日には「交通政策シンポジウム」を開いて、市民の理解を得ようという。

 「明石まちづくり小史」は、古来から“交通の要衝”として開けてきた明石の交通事情からはじめよう。初回は今年でちょうど満120年を迎える「鉄道の夜明け」からスタートする。

 新橋―横浜間に日本最初の鉄道が開通したのは明治5年(1872年)。2年後には神戸―大阪間に官設鉄道が開通しているから、関西の鉄道の歴史は早い。

 明治19年、時の兵庫県知事内海忠勝が神戸-姫路間の鉄道敷設を提案、国が下関までの敷設を決定して山陽鉄道会社が発足し、21年には兵庫―姫路間を着工。わずか5ヶ月で11月1日には、兵庫―明石間に陸蒸気(おかじょうき)が走った。所要時間42分は120年前としては速い。1万500平方メートルにおよぶ明石駅前は一面の広っぱだった。その年12月23日には姫路まで開通した。

 神戸―姫路間の開通時の途中駅は兵庫、須磨、垂水、明石、大久保、土山、加古川、阿弥陀(宝殿)の8駅。当初は二見を通過する予定だったが、物資の集散地として活況を呈していた二見港の住民の一部が反対し、二見、魚住、阿閇(あえ=現在の播磨町)、加古川の各村が境界を接する場所を選んで土山になった。当時は同じような理由で、宝殿(高砂)、上郡(赤穂)など既存の中心街を離れて駅ができた例は少なくない。

 兵庫―姫路間は明治32年(1899)に複線開通し、同39年の鉄道国有化法で国鉄山陽本線になった。山陽鉄道の国有化と同時に、神戸の民間資本は兵庫電気鉄道会社を創立し、兵庫―明石間に電気鉄道の敷設を計画。明治43年(1910)に兵庫電鉄兵庫―須磨間が開通、順次西へ延ばして大正6年(1917)4月12日には兵庫―明石間が全通した。当時は西本町まで臨港線を延ばして淡路への連絡船と直結、明治末から盛んになっていた淡路航路との利便を図った。

 大正12年(1923)には神戸姫路電鉄が明石―姫路間の海岸線を結ぶ電鉄を開通させ、昭和2年(1927)には両電鉄が合併し(後に山陽電鉄)兵庫―姫路間の直通運転が開始された。昭和10年には京都―神戸間の省線電車(鉄道省の直轄電車からこう呼ばれた)が明石まで延び、明石駅に裏駅が開設され、明石は電車時代に入った。

 明治時代の鉄道敷設は、富国強兵を進める国策として推進された。山陽鉄道が広島まで開通した年にはじまった日清戦争では、出征部隊を広島・宇品港から出帆させるために、宣戦布告から2週間余で宇品線を突貫工事で完成させ、開通したばかりの山陽鉄道が活用された。戦後の高度成長下で進められた山陽新幹線は、戦時中に計画された“弾丸列車”の予定地も一部活用された。後にみる西明石駅の開設も、戦時中の巨大な軍需工場だった川崎航空機(現在の川重)への勤労動員のために開設された駅がスタートだった。

 鉄道駅の開設と駅前のまちづくりには、これからのまちづくりを考えるうえでさまざまなヒントが秘められている。明石市内の「えき物語」は、回をあらためて順次振り返ってみよう。

(明石市史の下巻を主として参照)